菊畑茂久馬略歴
1935年長崎市に生まれる(本籍は徳島県)。父は徳島県出身の漁師、母は長崎県五島出身。生後間もなく父が死去し、家業は倒産。母は福岡で働き、茂久馬は知人や親戚に預けられて長崎と福岡を行ったり来たりするが、1944年戦火の中福岡に移り、母とともに福岡大空襲を潜り抜けて終戦。しかし福岡市立警固中学校卒業のころ、母は病死。学友の父が親代わりとなって、福岡県立福岡中央高校卒業。
高校卒業後は社会に出て働く。1954年より、岩田屋百貨店の楽焼コーナーで絵付けの仕事をする傍ら、絵画を描く。1956年第24回独立展に出品し、《二人》が入選。同年、福岡県庁外壁で行われていた「ペルソナ展」を見る。この頃からのちの「九州派」の主要メンバーとなる桜井孝身、オチ・オサム、石橋泰幸、田部光子、小幡英資らと出会う。1957年九州派の旗揚げ展である「グループQ18人展」に出品。以後九州派の主要メンバーとなり数々の展覧会に出品。九州派のトレードマークであるアスファルトを菊畑も用い、数々の作品を制作。1958年岩田屋美術画廊で初個展。1959年末、公募展出品の是非をめぐる対立から九州派を脱退し、オチ、山内重太郎と「洞窟派」結成。
1960年「第12回読売アンデパンダン展」に《葬送曲No.2》を出品し、雑誌「みづゑ」にカラーで掲載。1961年「第13回読売アンデパンダン展」および国立近代美術館企画の「現代美術の実験」に《奴隷系図(貨幣)》を出品。また同年銀座画廊で行われた「九州派展」には《奴隷系図(三本の丸太)》を出品して九州派に復帰。しかし現代美術の企画画廊である南画廊からオファーされ、1962年に同画廊で個展を開催し、円盤上の《奴隷系図―円鏡による》を多数出品。これ以降九州派には加わっていない


1964年、美術評論家の東野芳明の企画による「ヤングセブン」(南画廊)に《ルーレット》を出品し、同年、同画廊での個展にも《ルーレット》を多数出品。また1965年米国8会場を巡回した「The New Japanese Painting and Sculpture」に選抜され、《ルーレット》3点を出品。また、神奈川電業会館の外壁陶板壁画を制作。若手前衛美術家としての地位を固めつつあったが、同じころ、ルポルタージュ作家・上野英信の紹介で、福岡県田川市に住む炭鉱画家・山本作兵衛の事を知り、その素朴ながら精緻を極めた炭鉱記録画に衝撃を受け、田川通いが始まる。自ら深くかかわった「前衛思想」が、作兵衛の、肉体労働に裏打ちされた記憶の絵画(幻想絵画)に太刀打ちできるのか、という命題を乗り越える試みだった。次第に中央の現代美術のシーンに背を向けるようになる。またオブジェの制作も始める。
1967年、弛緩した福岡の美術状況を立て直すべく、新聞記者の深野治、谷口治達とともに「九州・現代美術の動向展」を企画し、自らも出品。1969年の「第3回九州・現代美術の動向展」では事務局長となり、「集団蜘蛛」のハプニングを誘発。
1970年、美学校(東京)の講師を依頼され、山本作兵衛の作品の模写壁画を制作することを授業とすることを条件に受諾(その後、授業内容は変遷し2001年まで毎月1回上京)。1972年、美術手帖より依頼があり、戦争記録画に関する論文「フジタよあなたは…」を執筆(美術手帖1972年3月号掲載)。1973年より文芸誌『暗河』の表紙を担当し、オブジェを使った写真を掲載。同誌12、13,15号(1976年)に「天皇の美術」を掲載。
1974年オブジェの写真をシルクスクリーンで版画にした《天動説 其の一》を発表。1978年著書『フジタよ眠れ』(葦書房)刊行。また同年『天皇の美術』(フィルムアート社)刊行。前者には、藤田嗣治の戦争画に関する論考のほか、山本作兵衛の関するエッセイも掲載。画家の内部と外部の熾烈なぶつかり合いの果てに生まれる表現の在り様を論じ、後者では戦争記録画を起点に、明治時代の「美術」制度の黎明期にまでさかのぼって論述し、表現の自由が「国家」の枠を超えられない日本美術の宿命を暴いた。

1980年今泉省彦が雑誌『機関』を復刊し、彼と菊畑が2人で責任編集となって1960年代の前衛美術の作家や評論家を掘り起こす作業に着手。1981年ドキュメンタリー番組「絵描きと戦争」(RKB毎日放送)放送。同局ディレクターの木村栄文が制作し、菊畑が番組構成を務め、台本も執筆した。1982年著書『戦後美術の原質』(葦書房)刊行。
1983年、東京画廊で19年ぶりの本格的な個展を開催。200号の連作《天動説》を展示し、美術界に復帰。発表時は8点だったが、8点が追加制作されて合計16点となり、1985年「現代美術の展望 ‘85FUKUOKA 変貌するイマジネーション」(福岡県立美術館)で全点展示される。その後後半8点が加筆、改作される。
1986年九州派時代の回顧的内容である著書『反芸術綺談』(海鳥社)刊行。同年東京画廊での個展で《月光》8点を発表。1988年福岡市美術館で、九州派の活動を始めて回顧する「九州派展」が開催され、菊畑の《葬送曲No.2》等出品。同年北九州市立美術館で個展「菊畑茂久馬展」開催。《奴隷系図―円鏡による》など過去の作品に加え、《月光》後半8点、《月宮》4点を初出品。また1960年代後半に制作されていたオブジェの数々が本展で初めてお目見えした。1989年画家の最晩年の作品から画家の歴史をさかのぼって記す『絶筆―いのちの炎』出版(葦書房)。1993年から94年にかけて『菊畑茂久馬著作集』(全4巻)が刊行される。
1990年《海道》(東京画廊)、1991年《海 暖流・寒流》(カサハラ画廊)、1993年《舟歌》(東京画廊)、そして1996年《天河》(カサハラ画廊)と大作の連作を次々に発表。いずれも濃密なマチエールの中に、菊畑自身の幼き日々の父母の記憶を塗りこめた内容を持つ。絵の具のマチエールという物質と、画家の筆痕がせめぎ合い、そこに何物にも流されない菊畑自身の内面にしか生じえない「幻想」を封じ込めた絵画の数々は、抽象的な画風でありながら、叙情的な内容を伝える。1998年徳島県立近代美術館で、《天動説》以降の絵画作品に焦点を当てた個展「菊畑茂久馬1983-1998:天へ、海へ」開催。




2001年福岡県立美術館で連続講演会「絵描きが語る近代美術」(講演録が『絵描きが語る近代美術 高橋由一からフジタまで』(弦書房)として2003年刊行)。2007年同館にて、オブジェに焦点を当てた個展「菊畑茂久馬と〈物〉語るオブジェ」開催。2009年長崎県美術館にて「菊畑茂久馬 ドローイング」開催。2011年福岡市美術館・長崎県美術館の共同企画・同時開催として大回顧展「菊畑茂久馬回顧展 戦後/絵画」開催。九州派時代から前衛時代を経て《天動説》などの連作絵画のほか、本展のための新作《春風》12点が発表され、その明るく軽快な作風が話題をさらった。同年第53回毎日芸術賞受賞。アーティスト村上隆と知遇を得、2015年カイカイキキギャラリーで個展を開催。《春風》に続く作品、《春の唄》連作が出品された。また、村上がコレクションした《春風 三》が、2016年「村上隆のスーパーフラットコレクション」(横浜美術館)に出品された。同年「釜山ビエンナーレ」に、《奴隷系図(三本の丸太による)》(1961年)》の再制作作品を出品。これは本展コミッショナーであった椹木野衣からの出品依頼に応えたものであった。
2020年、福岡市で逝去。85歳没。